しじまの里

オタクもすなるブログといふものを、静寂もしてみむとてするなり。

「Re:CREATORS」は「シン・ゴジラ」である

 「シン・ゴジラである」は少し言い過ぎたが、少なくとも共通点はあると思う。その共通点とは、メタ的な方法でリアリティを構築し、そこで起こるであろう出来事をシミュレートすることであろう。

 

現実世界とのオーバーラップと、展開のシミュレート

 あまりに抽象的な物言いになってしまったので少し解説を。即ち、作品世界での出来事などを現実世界のそれと重ね合わせ、またそこで起こり得る出来事をシミュレーション的に描くということである。
 シン・ゴジラでは、巨大不明生物出現という「非常事態」における空気を観客に感じさせてリアリティを構築し、その上で巨大不明生物との戦いまでを、政府はどう動くか、自衛隊はどう動くか、とシミュレーション的に描いた。

 ではRe:CREATORSでは何を描いているのか。それは、漫画・アニメ・ライトノベルなどをひっくるめた創作文化である。
 今作では劇中劇について、作者やジャンル、そのキャラクターや作品ロゴに至るまでを設定、また、それを取り巻く「創作文化」の空気を描き、現実世界と重ね合わせている。
 また、劇中劇から現界したキャラクターは、現実世界の作品にも存在しうるようなステレオタイプで描かれている者も多く(例えば女騎士のキャラクターがアナルよわそう騎士然としているが石頭だったり)、現実世界とのオーバーラップを強固にしている。そして、キャラクター達のバックホーンをあえて多くは語らないことで、現実世界の作品のステレオタイプと重ね合わせる余地を与えている(そこを想像で補った分、ステレオタイプに近づくという寸法)。
 そしてその「多くは語らない」という特徴は、今作の「シミュレーション的に描く」要素にも繋がってくる(要するに、キャラクター達が既知であることをわざわざ周りに語らないよね、ということ)。

 先程述べたことから察することもできるかも知れないが、今作はラスボスである「アルタイル」との闘いと共に、キャラクターをシミュレーション的に描いている。つまり、現界したキャラクターがどう動くかなどを(現界以降のキャラクターの変化を含め)シミュレーション的に描いている。つまりキャラクター主導で話を動かす、更に簡単に言えばライヴ感で描くということである。
 これによって話の枝葉が分かれ、「話が進まない」という印象に繋がった感はあるが、この要素は今作と噛み合っており、欠かせない。

 

ドライな創作観

 それら「シミュレーション的に描く」ことと関係があるかも知れない要素として、ドライな創作観があるだろう。情熱や綺麗事だけではどうにもならない、100%完璧な作品を作ることは難しい、クリエイターが人格者とは限らないなど、創作という題材を扱う他作品に比べ、いささか創作観や創作文化に対する視点がドライである。恐らくこれはクリエイター、ひいては広江礼威氏の本音であり、「シミュレーション的な描き方」や「現実世界とのオーバーラップ」に繋がっているだろう。
 そして創作文化に対するドライな視点の化身たる存在が、「アルタイル」ではなかろうか。本編を観れば分かるが、彼女のバックホーンには創作文化に渦巻く悪意、無思慮、無責任、軽々しい消費、などの負の部分が現れており、それに呼応して彼女も創作文化に対する怨嗟や侮蔑を隠さない。この創作文化の負の部分は、我々も日々、見、聴き、肌で感じているだろう。この露悪的とも言える負の部分の表現が「現実世界とのオーバーラップ」に繋がっていることは言うまでもない。

 

今作のテーマ

 では、上述した様々な要素を使って、今作は何を表現したいのか。テーマは何か。それは創作文化に対する賛歌であろう。
 今作はそのドライな創作観とは対照的に、創作に対する情熱を肯定する。受け手(視聴者・読者・観客)の、作品に対する情熱も然り。こういうテーマは、創作という題材を扱う作品では普遍的であろうが、「創作文化の空気」を描くことやドライな創作観などが、そのテーマに奥行きを与え「綺麗事だろうけど、それでも創作への情熱を信じたい」という文脈を与えている。
 そんな今作のテーマは、我々が創作物を楽しむ際にも大切なことではなかろうか。

 

あとがき

 ぶっちゃけこんなめんどくさいこと考えなくても楽しめると思う。基本的にエンタメ色強いし。
 ただ、ここで語った要素の分、少々「作品を噛み砕く歯」が必要になると思うので、そこは留意されたし。

 ちなみにネット配信はAmazonプライムが独占している。加入してない方は、各々他の方法を探してほしい。とは言ってもイリーガルな方法は駄目だよ。

 アルタイルがもっと絶望するだろうから。

この素晴らしい作画に祝福を!

 一期が好評を博し、二期の放送も好調である「この素晴らしい世界に祝福を!」であるが、この作品に対し、コメディ作品としての評価に反して言われ続けているフレーズがある。
 お察しの通り「『このすば』は作画が悪い」である。これは一期放送当初から言われ続けており、おそらく今でも言われているであろう。
 実際は悪いどころか、逆に作画的見所に恵まれており、今作のコメディ要素も作画に支えられている部分が少なくない。今回は、今作のそういった部分について言及したいと思う。

 

キャラデザ・表情の面から

 今作の「作画が悪い」という印象の元となっている要素の一つとして、キャラクターデザインがあるだろう。あのシンプルで独特なキャラデザを見て、視聴者がそう感じてしまうのは想像に難くない。
 しかし、あのキャラデザだからこそ、今作がコメディであることが一目で分かり、また本編のコミカルさを助長している。
 そして、コミカルさを助長するのはキャラデザだけではなく表情付けもである。その様々な表情がキャラクターを生き生きとさせ、そしてコメディ要素を彩るのである。

 つまり今作のキャラデザ・表情は、今作をコメディたらしめる重要な要素なのである。

 

芝居・アクション・エフェクトの面から

 先程"生き生き"と描いた通り、アニメーションでの動きの要素は、キャラクターなどの生き生きとした印象に繋がる。というかそもそも「アニメーション」という言葉の語源が「生命・魂」を意味する「anima」であり、アニメーションとは動きによって絵に命を吹き込むものなのだ。その観点から、今作で散見される上手い芝居キャラクターの生き生きとした印象に繋がっている。
 またキャラクターが活きることで、キャラクターの"残念な"面も強調され、それがコメディとしての面白さに繋がっている。例えばアクアは、最新話(書いた当時では6話)でも見られたコミカルな芝居がアホさを強調し、ダクネスは、ちゃんと身悶えるからこそ、そのM面が伝わるのである。
 そして、アクション・エフェクト面も、キャラクターの強調に繋がっている。めぐみんの爆裂魔法は、小澤和則氏渾身の爆発エフェクトによってその威力が伝わり、だからこそ爆裂娘っぷりが面白くなる。ダクネスだって、高橋しんや氏の描いた剣戟のようなアクションシーンがあってこそ、視聴者は彼女のことを「強そう」だと感じ、そして彼女の残念な面が強調されるのだ。

 つまり今作は、しっかり動くことによって、コメディとしての強度を高めているのである。

 

"イメージ"の面から

 今作における作画の貢献は先に述べた通りだが、間接的に貢献している面がもう一つある。即ち「作画が悪い」というイメージだ。このイメージは「視聴のハードルを下げる」という貢献を果たしている。
 今作が「作画が悪い」と思われることによって、視聴者の視聴ハードルは下がり、「肩の力を抜いて観られるコメディ」として視聴させることができるのだ。
 またこのイメージは、先に述べた「今作における作画の貢献」を視聴者に意識させず、コメディ作品として素直に観させる効果もある。

 あまり良く思われていないこのイメージも、一応今作に貢献はしているのだ。そう思うことが良いことかは別問題として。

 

あとがき

 こうやって今作の作画について語った理由は、「作画が悪い」というイメージの払拭というよりは、「今作は作画によっても支えられている」ということの認知にある。
 確かに今作のコメディ要素を支えるものは他にもある(例えばBGMや次回予告のぶつ切り芸とか)。しかし作画によっても支えられていることは確かであり、それが認知されないのは流石にアニメーターさん達が不憫だ。故に、ささやかな応援の意も込めて、この拙文を書いたわけである。
 それを踏まえ今回は、記事タイトルであるこの言葉で締めたいと思う。

 

「この素晴らしい作画に祝福を!」

 

(2/20 更新) 表現などを一部修正

(8/8 更新) 内容の一部に重大な瑕疵が認められたため該当箇所を修正

ガーリッシュナンバー劇中PVに隠された悪意

作画崩壊という言葉は、いわゆる「作画オタク」とそうでないオタク(以下一般オタク)との間で、たびたび定義に相違が生じる。

例えば、好評を博し二期の制作も決定した「この素晴らしい世界に祝福を!」は、そのシンプルで独特なキャラデザによって、あまり作画が良くないと言われがちだが、実際はキャラデザや総作監を担当した菊田幸一氏をはじめ、小澤和則氏、高橋しんや氏などの上手いアニメーターの尽力によって生き生きとした作画が生まれ、作品の魅力の一端を担った。このような感覚の相違は度々起こり、作画オタクと一般オタクの間の衝突の原因にもなったりする。

この感覚の相違を、今期アニメ「ガーリッシュナンバー」は、劇中PVを用いて取り入れ、一抹の悪意を持ってメタ的に視聴者を巻き込んだ。今回はそのことについて話す。

 

実は作画のいいPV

「ガーリッシュナンバー」2話では、作中アニメのPVが作られ、実際に流された。そのPVは現在"作画崩壊"なものと捉えられがちだが、その実、松竹徳幸氏の一人原画、第二原画に吉成鋼氏など、という豪華メンバーで作られたとんでもない代物である。

確かに、シンプルなキャラデザや簡素な描き込みなど、意図的に「パッと見がしょぼく見えるように」作っている節は随所に見られる。しかしPV内のアクションや芝居は、控えめに言っても「上手い人間」のそれである(PVに静止画が多めなのは、そこら辺のイメージを誤魔化すためだろう)。

しかし、単に「作画崩壊とされているものが実はスゴイものだった」というのは過去にもあった話であり、私がこの話題を取り上げる理由は別のところにある。

 

即ち、「このPVが、作中で"作画崩壊したPV"というニュアンスで流れた」というところである。

 

"作画崩壊である"という文脈と、意図的な"感覚の相違"

このPVは流れる前、劇中で作品プロデューサーらによって「かけた費用に対して出来が悪い」というニュアンスで批判された。これによって視聴者に「このPVは出来の悪いPVである」と認識させ、先に述べた工夫も用いた上で"作画崩壊"だと捉えさせたのだ。

誰かが"作画崩壊"だと捉え、それに他の人間が同調する、という現象は現実でも度々起こっているが、それを今作は作品を通して発生させた。こうして作画オタクと一般オタクの間に、感覚の乖離を意図的・メタ的に作り出したというわけである。

 

更に言うと、この"感覚の乖離"は、劇中でも発生している。先に述べた「かけた費用に対して出来が悪い」という指摘は、「実際は費用相応の出来だが、受け手がそれに気づいていない」とも解釈できるし、実際あのPVは「松沢さんの作ったPV」として劇中キャラ、片倉京に評価されている。

 

要するに今作は、このPVによって(視聴者間のみならず劇中においても)"感覚の乖離"を意図的に引き起こした、ということであり、私はこの点で、この話題を特筆すべきと認識した。

 

このメタ演出を踏まえた、今後の展開

しかしこの表現は、娯楽作品のそれとしてはかなり回りくどく、分かりづらいものである。故に私は、これを次回の展開のための"準備"だと考えた。

 

その展開については、たびたび今作から感じられ、この"感覚の乖離"の演出からも滲み出る「悪意」を考えると、「視聴者への攻撃」を行うのではないかと考えている。即ち、作画オタク一般オタクのうち片方を代弁し、劇中キャラがもう片方を糾弾するのだ。

具体的な流れとしては、まずこのPVを評価した片倉(=作画オタク側)がエゴサによって、PVを"作画崩壊"だと笑うオタク(=一般オタク側)を見つけ、彼らに対して激しく憤る。これによって一般オタク側への攻撃が完了する。そしてその様子を見た烏丸(=一般オタク側)が「うわ~アニメ博士怒ってる~」のようなニュアンスで嘲笑、作画オタク側への攻撃を完了する、という辺りが妥当か。

 

要するに、このような全方位煽りを以てこの一連の演出が完成すると、私は考えているわけである。

 

あとがき

一連の話を要約すると、「作ったPVを視聴者に叩かせ、叩いた人間評価した人間ともども煽る」という悪意に満ちたマッチポンプが完成してしまうのだが、こんな性格の悪い予想が的中したらどうなるのだろう。少なくとも、かなり悪意に満ちたアニメだと捉えられることは間違いない。

とりあえず、「ガーリッシュナンバー」制作陣はst.シルバーに謝った方がいいと思う。もう既に謝っているかもしれない。

PUNCH☆MIND☆HAPPINESSのお時間

春アニメも続々と最終回を迎えるこの頃ですが、そんな春アニメの中で印象に残った主題歌はあるでしょうか?
様々な曲が挙げられるとは思いますが、やはり「あんハピ♪」OPの「PUNCH☆MIND☆HAPPINESS」を挙げる人は多いのではないでしょうか。少なくとも私はこの曲を挙げます。
田中秀和氏、畑亜貴氏による渾身の一発たるこの曲にMINDをPUNCHされてHAPPINESSした方も多いと思われますが、その秘訣とは何なのでしょうか?というのが今記事の話題となります。
パッと聴いただけでもあふれ出るこの曲の変態性を、少しばかり解説してみたいと思います。

ちなみに今回取り上げるのは、TV版ではなくFull版です。故にFull版の曲構成のネタバレが含まれております。ご了承ください。

 

PUNCH MINDとHAPPINESS

まずは結論、この曲の持つ"秘訣"とはどのようなものかについて、からお話しいたします。ずばり「PUNCH MIND(意表を突く、インパクトを与える、翻弄する)」と「HAPPINESS(多幸感、幸福感)」かと思われます。
後者は「あんハピ♪」が「幸福」をテーマとしていることから必然的なもの、また前者についても、「あんハピ♪」という作品の特徴に合致したものと言えるでしょう。
これから、その「PUNCH MIND」「HAPPINESS」について詳しく掘り下げていきたいと思います。

 

イントロ

イントロは曲の持つ性格を提示する目的と同時に、聴衆を引き付ける目的があります。それを鑑みると、この曲のイントロのクオリティの高さがお分かりになると思います。
そんなイントロのクオリティの秘密は、パンwwwwwwwwwパンwwwwwwwwwパンチマインドwwwwwwwww印象的なリズム、そしてaugコードでしょう。


パンwwwwwwwwwパンwwwwwwwwwパンチマインドwwwwwwwwwに関しては、もう言うまでもないでしょう。語感も相まって、物凄く印象的なコールに仕上がっています。印象的なリズムも、シンプルかつ頭に残るものを、前述のコールと絡めて提示していることが分かります。
最後のaugコードですが、おそらくこれが、このイントロをこのイントロたらしめる要素です。
「コード(Chord)」とは、曲を構成する要素として挙げられる「メロディ」「リズム」「ハーモニー」における、「ハーモニー」の部分です。augコードは独特な響きを持つコードであり、それをイントロに組み込むことによって聴衆を引き付け、またこのイントロを特徴的なものとしているのです。
このaugコード独特の、お道化たような響きが「HAPPINESS」要素とも言える、ということです。どことなくはなこっぽいコード 略してはなコード
イントロ内の管楽器によるリフについても、augコードの響きに合わせて、所々に音階から外れた音を用いており、お道化たような効果をもたらしております。ズコー効果

 

以上の三要素を、再生直後に耳へブチ込むことによって、聴衆を引き付けつつ「PUNCH MIND」「HAPPINESS」させる効果が発生するのです。
さらに、この三要素のうちaugコードは、イントロ以外でも、(mM7などの類似コード含め)曲全体に頻出し、この曲の「HAPPINESS」要素の一つを担っております。

 

Aメロ

Aメロにおいて、ピアノが裏打ちのリズムをとっています。ンッチャッンッチャッってやつです。
行進曲でも使われていたり、所謂「四つ打ち」のリズムにおいてハットが裏拍を強調するように、裏打ちのリズムは軽快さを表現できます。この裏打ちのリズムによって、この曲は軽快さを増し、「HAPPINESS」効果が生み出されます。
先程例に出した「四つ打ち」もこの曲で使われており、これも「HAPPINESS」効果を生み出してると言えます。
軽快さの表現としてはもう一つ、ウォーキングベースが挙げられます。ウォーキングベースとはジャズなどで用いられるベースラインで、一定のリズムを刻みつつ旋律を展開するというものです。
Aメロでは四分音符の間隔でベースが旋律を奏でており、さりげなく軽快さを演出しております。

 

この曲は全体的に軽快さがありますが、ここで述べたように、Aメロでは特に意識しているような気がします。ピアノの裏打ちなどからそれを強く感じます。

 

Bメロ

「そうだね」の部分をフックとしてBメロに入りますが、ここで曲の雰囲気がガラリと変わり「PUNCH MIND」しています
Aメロでも使われていたウォーキングベースが八分音符間隔になり、さらにエレキベースではなくウッドベースに変わっております。ドラムもライドシンバルを打っており、ジャズ調になっているのが分かると思います。
そして、ウォーキングベースが八分間隔になることやライドシンバルのリズムなどによって、一種の焦燥感が生まれ、どこか不安定な感覚を覚えます。これについては、ドミナントモーションの仕組みにも用いられている「不安と解決」の概念における「不安」の部分に該当すると思われます。
Aメロとサビのつなぎに位置するBメロの性格に合致しており、「不安と解決」のもたらす効果を考えると「HAPPINESS」要素とみなすことが可能です。
いきなりジャズ調になっても曲の整合性を保つ秘訣としては、ピコピコと鳴っているシンセがつなぎの役割を果たしていることが考えられます。

そして「にーげちゃったーよーーーーーーーー」をつなぎとしてサビ前に曲の雰囲気が戻り、イントロで使われたリズムを再び用いつつ、「こーっち!」とサビへ導いていきます。ここで管楽器が再び登場しており、リズム共々、イントロにおいて伏線が張られていたことが分かります。

 

サビ~Aメロ(2コーラス目)

サビでは管楽器がふんだんに用いられており、サビ前での管楽器の再登場、ひいてはイントロにおける伏線が活きていることが感じられます。
金管楽器の音は、ファンファーレでも用いられる通り、祝祭的な響きを持ち、それによってこのサビに多大な「HAPPINESS」効果をもたらします。
「生命力アップだ ~」の部分の半音ずつ上がっていくメロディーも、否応なしに高揚感を掻き立てることから「HAPPINESS」要素と言えます。
そしてサビが終わるところで、TV版に慣れ親しんだ聴衆は、突然の転げ落ちるようなフレーズに衝撃を受けます。これは登場人物に降りかかる「不幸」の暗喩であるとともに、れっきとした「PUNCH MIND」要素でしょう。何事もなかったかのように慣れ親しんだAメロに移行するのも、降りかかる不幸をものともしない「はなこ味」を感じます。はなこ味とか美味しそう
2コーラス目のAメロでは「誤魔化せるかもね」相当の部分で、1コーラス目と微妙にメロディを変えています。これについては、1コーラス目の合いの手が「なんとでもなるさ」と受動的なのに対し、2コーラス目は「なんとかしちゃうよ」と能動的な表現になっているのと関係がありそうです。

この後Bメロに入ると予想した聴衆は、Aメロが終わった時に入るものが「そうだね」ではなく、「ッテーン!」というピアノの音であることに気づきます。そこである程度身構えることができた聴衆は、「PUNCH MIND」効果を受けつつ、スムーズに次の曲展開を迎えられます

 

間奏~Bメロ変形~大サビ

ピアノの音をきっかけとして入った間奏において、合いの手的なベースのフレーズが、ウッドベースエレキベースと使い分けられております。Bメロでもウッドベースが使われていましたが、間奏の前半ではその使い分けが顕著に表れています。このカオティックな使い分けは、どこか「PUNCH MIND」的と言えるかもしれません
そして転調を交え、ソナタの展開部めいた様相を呈する間奏で「PUNCH MIND」された後、(おそらく半音程度)キーが下がっていることが分かります。また、間奏後のパートはBメロを基本としておりますが、コード進行やメロディが若干異なります
これは、聴衆の意表を突いた「PUNCH MIND」的でありつつ、慣れ親しんだBメロのフレーズで安心感を与える「HAPPINESS」的であるとも言えます。秀逸です。


そして半音上げ的方法論で元のキーに戻して大サビに突入します。「未来がキレイに ~」部分などが全員での歌唱になっていたり、サビの最後のフレーズを繰り返したり、大サビらしい大団円めいた要素が加えられております。
最後の「パンwwwwwwwwwパンwwwwwwwwwパンチマインドwwwwwwwww」もTV版より長く、スネアドラムの連打など、より高揚感を与える要素が与えられ、聴衆が「HAPPINESS」状態になっているところで、円満に曲が終わります

 

あとがき

冗長に語ってしまいましたが、要するに私の言いたいことは「この曲は聴衆のMINDを、トリッキーな展開などでPUNCHした後、そのキャッチ―さなどでHAPPINESSにする合法ドラッグである」ということです。世が世ならしょっぴかれそうですね。
そして私は記事を書きながら、この曲の恐ろしさを痛感しておりました。やべえ
これからもこの曲は、聴衆を文字通り「PUNCH☆MIND☆HAPPINESS」していくことでしょう。

この記事を読んで「ついてる」と感じた方も感じなかった方も、私の拙文を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

「クソ」が頭に付く物を愛する文化について

私は普段、Twitterで深夜アニメの実況などをしているような人間であるのですが、実況の界隈には結構「クソアニメ」が好きな人が多いです。例えば、担当脚本家さえ驚愕した最終話を生み出した某アニメが好きな人、ことあるごとに綴ったり思い出したりしてる人……
故に若干「クソアニメ」界隈との繋がりもあり、私自身も「クソアニメ」に魅力を感じていることは自認しております。
このような「その手の」界隈が多くいる環境に身を置いていると、「その手の」界隈に対する周囲の認識について、思うところも出てきます。
故にこの記事を書き、「その手の」界隈を認識する助けになればいいと思い、筆を執っております。

クソな物のクソな部分を楽しむ文化

先程の文章の途中から、「その手の」界隈というぼかされた表現を用いてますが、その理由として、この話は「クソアニメ」界隈だけに限らないからです。
先程言及したクソアニメが好きな人の他にも、「クソゲー」好き、「クソ映画(Z級映画)」好きなど、「クソ」が頭に付くものを好む文化はアニメだけに留まりません。
そして彼ら「クソ」好き文化に共通するものは、おそらくクソな物のクソな部分を楽しむところでしょう。例えば、「クソゲー」好き文化の代名詞たるKOTYでも、総評文からクソゲーを楽しんでいることが窺えます。
というか、「好き」なんですから楽しんでいて普通です。

じゃあ「クソな物のクソな部分を楽しむ」とは一体どういうことなのでしょうか。
それについては、まずツッコミが挙げられます。つまり、「クソ」な物に含まれるクソ成分(例えばストーリーの破綻や超展開、しょっぱい作画、変な演出など)に対してツッコミを行う、という楽しみ方です。
おそらく実況界隈においてクソアニメ好きが多いのも、リアルタイムでツッコミができるという部分に起因するところもあるでしょう。
そういう「ツッコミ」も内包した要素として、クソ成分をネタ化するというものもあるでしょう。作品内のクソ成分や作品の象徴などに対して、ネタ的な面白さを見出すということです。
また、このような「笑い」に関する楽しみ方の他にも、クソ成分に浸かることによるトリップ感を得ることも楽しみ方の一つにあるでしょう。クソ成分に浸かっていると、だんだんクセになってくるのです確実にキマってます
要するに「クソ」な物というのは、視点を変えれば大いに楽しめる物であるということです。

 

その文化を取り巻く誤解

ここまでで紹介した「クソな物のクソな部分を楽しむ」文化ですが、外部からの誤解も多い文化でもあります。周囲の認識についての思うところ、というのはその「誤解」に関することです。
即ち「クソな物を貶す」文化と勘違いされやすいのです。以前にあった某お舟の女の子関連のゲームがKOTYレベルだKOTYレベルに達しないだのという騒動も、言ってしまえばここの認識の違いが原因とも考えられます。「貶す、糾弾する」目的の方がKOTY並と騒ぎ、「楽しむ」勢がそれを否定する、といった感じでしょうか。
しかしそれも当然と言えます。「クソ」な物というのは、普通に見ればクソにしか見えないのです。
更に言うと、その楽しみ方にネタ化なども絡んでいるため、「楽しむ」側の人達の言葉も揶揄的になりがちであり、「単に貶している」と認識されがちなのもあるでしょう。
しかし、たとえ彼らの言葉が揶揄的になっていても、そこにディスリスペクトの意図はなく、逆に「クソな物」としてリスペクトしているのです。視点を変えれば大いに楽しめるのですから。

 

あとがき

私がこの記事で伝えたかったことは、「クソな物のクソな部分を楽しむ」文化においては、「クソな物」は「クソ」として貶める物ではなく、「クソ」という観点からリスペクトすべき物である、ということです。この「クソな物を楽しむ」「クソな物をリスペクトする」概念を伝えたく思い、執筆いたしました。
伝わっていれば幸いです。ここまで読んでくださりありがとうございました。

大島縁氏がごちうさにもたらしたもの -あの第4羽について-

なかなかブログを始めるという行為に踏み出せず、この記事を書くタイミングも逸し続けて幾星霜……
ですが今回、ニコニコ動画において期間限定の無料配信が行われている(無料配信は終了しました)、ということで筆を執った次第であります。

 

ではまず、今回の主題であり、無料配信の報を聞いたとき自分が真っ先に観たいと思った羽数であるご注文はうさぎですか?(一期)」第4羽「ラッキーアイテムは野菜と罪と罰について話そうかと。

第4羽「ラッキーアイテムは野菜と罪と罰

ご注文はうさぎですか? 第4羽「ラッキーアイテムは野菜と罪と罰」 アニメ/動画 - ニコニコ動画

脚本: 井上美緒
絵コンテ: 小林公二, 大島縁
演出: 小林公二
作画監督: 大島縁(以上敬称略)

 

この羽数は大島縁さんと、彼(彼女?)とよく似た名前(すっとぼけ)の大島緑さんの一人?原画であり(第二原画あり)、作画的に個性の強い羽数に仕上がっていることは皆さん周知の通りかと思います。
特にチノちゃんの艶っぽさについてはよく言及されている印象です。

では、なぜチノちゃんについて言及されるのか、というところを考えていきます。

この羽数のチノちゃん、エニチノについて

勿論彼女は作中で一二を争う人気キャラです(このロリコンどもめ!)。しかし、本当にそれだけであるか?と考えまして、思考を巡らせた結果、容姿面からのキャラの再解釈という考えに至りました。

 

まずチノちゃんのパーソナリティを大まかに示すとすれば、クールで大人びた部分がありつつも、歳相応(あの容姿で中学生であることは気にしない)の可愛らしさがあるといった感じにまとめられるかと思います。
そのパーソナリティのうち、キャラデザの方はどちらかというと後者をフィーチャーしたものかと思われます。とてもろりろりしい
一方大島縁さんのチノちゃん(バリグナーの故事にあやかり、以後エニチノと記す)は、明らかに前者をフィーチャーしています。
そこら辺の差異を感じ取った難民視聴者が、エニチノちゃんについて言及しているのではないか、というわけです。

 

この解釈の違いがどのような効果を生み出すかと言いますと、うさぎに見とれて柱にぶつかる場面(公式動画5:35周辺)など、「歳相応の可愛らしさ」を発揮する場面で、いつも以上の「ギャップ萌え」効果をもたらすのです。かわいい
要するにいつもより大人びて見えるので子供らしさが映えるというスイカの塩理論です。

 

またこの羽数、いわゆる百合的にも非常にうまみのある回ですが、その理由の一端もここにあるのではないでしょうか。
勿論、縁さんによる演技付けも理由にあります。あの丁寧かつ生き生きとした動きがあってこそ、例の図書館でのシーン(19:55~20:15周辺)があのシーン足り得ると言えます。
しかしあのシーンもエニチノでなければ、魅力が半減……とまではいかずとも3割くらい減っていたのではないでしょうか。
ええ、勿論千夜シャロのシーン(21:12~21:29周辺)でも同様ですとも。動きの件も絵柄の件も。

第4羽がごちうさに何をもたらしたか

ここまでを踏まえて、記事タイトルの部分に言及しますと、視聴者がチノちゃんの艶っぽさ、大人びた部分をより意識するようになったのではないでしょうか。
ここからは半分以上私見ですが(ここまでも半分以上私見)、チノちゃんって結構艶っぽい声してんですよね。特に息遣いとか。水瀬いのりさんGJです。
自分がこういう部分に気付けたのも、この第4羽、このエニチノちゃんがあってこそなのではないか、と思ったんですね。
彼女の艶っぽさに気が付くと、百合的な奥行きも深まっていきます。ココチノは正義

 

……みたいな感じの事を語る自分のように、彼女の艶っぽさを意識するようになった難民共も少なくないのではないでしょうか。

 あとがき的サムシング

長々と記事を書きましたが、要するに「4羽のチノちゃんが艶っぽかったから、以後の羽数のチノちゃんも艶っぽく感じるようになった」というお話。
6月3日まで無料で観られる(無料配信は終了しました)らしいので、これを読んでくださったあなたも4羽、観よう!(直球)

ご注文はうさぎですか? 第4羽「ラッキーアイテムは野菜と罪と罰」 アニメ/動画 - ニコニコ動画

 

(5/28 更新) 表現とかをちょろちょろ修正しました

(6/5 更新) 無料配信終了につき修正

冷やしブログはじめました

冷やしてはいませんが、はじめました。

 

どのように使っていくか、という指針に関しては、「長期的に残しておきたい話題」「長々と文章を書きたいとき」に使っていくということになるかと思われます。Twitterあるし