しじまの里

オタクもすなるブログといふものを、静寂もしてみむとてするなり。

「クソ」が頭に付く物を愛する文化について

私は普段、Twitterで深夜アニメの実況などをしているような人間であるのですが、実況の界隈には結構「クソアニメ」が好きな人が多いです。例えば、担当脚本家さえ驚愕した最終話を生み出した某アニメが好きな人、ことあるごとに綴ったり思い出したりしてる人……
故に若干「クソアニメ」界隈との繋がりもあり、私自身も「クソアニメ」に魅力を感じていることは自認しております。
このような「その手の」界隈が多くいる環境に身を置いていると、「その手の」界隈に対する周囲の認識について、思うところも出てきます。
故にこの記事を書き、「その手の」界隈を認識する助けになればいいと思い、筆を執っております。

クソな物のクソな部分を楽しむ文化

先程の文章の途中から、「その手の」界隈というぼかされた表現を用いてますが、その理由として、この話は「クソアニメ」界隈だけに限らないからです。
先程言及したクソアニメが好きな人の他にも、「クソゲー」好き、「クソ映画(Z級映画)」好きなど、「クソ」が頭に付くものを好む文化はアニメだけに留まりません。
そして彼ら「クソ」好き文化に共通するものは、おそらくクソな物のクソな部分を楽しむところでしょう。例えば、「クソゲー」好き文化の代名詞たるKOTYでも、総評文からクソゲーを楽しんでいることが窺えます。
というか、「好き」なんですから楽しんでいて普通です。

じゃあ「クソな物のクソな部分を楽しむ」とは一体どういうことなのでしょうか。
それについては、まずツッコミが挙げられます。つまり、「クソ」な物に含まれるクソ成分(例えばストーリーの破綻や超展開、しょっぱい作画、変な演出など)に対してツッコミを行う、という楽しみ方です。
おそらく実況界隈においてクソアニメ好きが多いのも、リアルタイムでツッコミができるという部分に起因するところもあるでしょう。
そういう「ツッコミ」も内包した要素として、クソ成分をネタ化するというものもあるでしょう。作品内のクソ成分や作品の象徴などに対して、ネタ的な面白さを見出すということです。
また、このような「笑い」に関する楽しみ方の他にも、クソ成分に浸かることによるトリップ感を得ることも楽しみ方の一つにあるでしょう。クソ成分に浸かっていると、だんだんクセになってくるのです確実にキマってます
要するに「クソ」な物というのは、視点を変えれば大いに楽しめる物であるということです。

 

その文化を取り巻く誤解

ここまでで紹介した「クソな物のクソな部分を楽しむ」文化ですが、外部からの誤解も多い文化でもあります。周囲の認識についての思うところ、というのはその「誤解」に関することです。
即ち「クソな物を貶す」文化と勘違いされやすいのです。以前にあった某お舟の女の子関連のゲームがKOTYレベルだKOTYレベルに達しないだのという騒動も、言ってしまえばここの認識の違いが原因とも考えられます。「貶す、糾弾する」目的の方がKOTY並と騒ぎ、「楽しむ」勢がそれを否定する、といった感じでしょうか。
しかしそれも当然と言えます。「クソ」な物というのは、普通に見ればクソにしか見えないのです。
更に言うと、その楽しみ方にネタ化なども絡んでいるため、「楽しむ」側の人達の言葉も揶揄的になりがちであり、「単に貶している」と認識されがちなのもあるでしょう。
しかし、たとえ彼らの言葉が揶揄的になっていても、そこにディスリスペクトの意図はなく、逆に「クソな物」としてリスペクトしているのです。視点を変えれば大いに楽しめるのですから。

 

あとがき

私がこの記事で伝えたかったことは、「クソな物のクソな部分を楽しむ」文化においては、「クソな物」は「クソ」として貶める物ではなく、「クソ」という観点からリスペクトすべき物である、ということです。この「クソな物を楽しむ」「クソな物をリスペクトする」概念を伝えたく思い、執筆いたしました。
伝わっていれば幸いです。ここまで読んでくださりありがとうございました。