しじまの里

オタクもすなるブログといふものを、静寂もしてみむとてするなり。

ガーリッシュナンバー劇中PVに隠された悪意

作画崩壊という言葉は、いわゆる「作画オタク」とそうでないオタク(以下一般オタク)との間で、たびたび定義に相違が生じる。

例えば、好評を博し二期の制作も決定した「この素晴らしい世界に祝福を!」は、そのシンプルで独特なキャラデザによって、あまり作画が良くないと言われがちだが、実際はキャラデザや総作監を担当した菊田幸一氏をはじめ、小澤和則氏、高橋しんや氏などの上手いアニメーターの尽力によって生き生きとした作画が生まれ、作品の魅力の一端を担った。このような感覚の相違は度々起こり、作画オタクと一般オタクの間の衝突の原因にもなったりする。

この感覚の相違を、今期アニメ「ガーリッシュナンバー」は、劇中PVを用いて取り入れ、一抹の悪意を持ってメタ的に視聴者を巻き込んだ。今回はそのことについて話す。

 

実は作画のいいPV

「ガーリッシュナンバー」2話では、作中アニメのPVが作られ、実際に流された。そのPVは現在"作画崩壊"なものと捉えられがちだが、その実、松竹徳幸氏の一人原画、第二原画に吉成鋼氏など、という豪華メンバーで作られたとんでもない代物である。

確かに、シンプルなキャラデザや簡素な描き込みなど、意図的に「パッと見がしょぼく見えるように」作っている節は随所に見られる。しかしPV内のアクションや芝居は、控えめに言っても「上手い人間」のそれである(PVに静止画が多めなのは、そこら辺のイメージを誤魔化すためだろう)。

しかし、単に「作画崩壊とされているものが実はスゴイものだった」というのは過去にもあった話であり、私がこの話題を取り上げる理由は別のところにある。

 

即ち、「このPVが、作中で"作画崩壊したPV"というニュアンスで流れた」というところである。

 

"作画崩壊である"という文脈と、意図的な"感覚の相違"

このPVは流れる前、劇中で作品プロデューサーらによって「かけた費用に対して出来が悪い」というニュアンスで批判された。これによって視聴者に「このPVは出来の悪いPVである」と認識させ、先に述べた工夫も用いた上で"作画崩壊"だと捉えさせたのだ。

誰かが"作画崩壊"だと捉え、それに他の人間が同調する、という現象は現実でも度々起こっているが、それを今作は作品を通して発生させた。こうして作画オタクと一般オタクの間に、感覚の乖離を意図的・メタ的に作り出したというわけである。

 

更に言うと、この"感覚の乖離"は、劇中でも発生している。先に述べた「かけた費用に対して出来が悪い」という指摘は、「実際は費用相応の出来だが、受け手がそれに気づいていない」とも解釈できるし、実際あのPVは「松沢さんの作ったPV」として劇中キャラ、片倉京に評価されている。

 

要するに今作は、このPVによって(視聴者間のみならず劇中においても)"感覚の乖離"を意図的に引き起こした、ということであり、私はこの点で、この話題を特筆すべきと認識した。

 

このメタ演出を踏まえた、今後の展開

しかしこの表現は、娯楽作品のそれとしてはかなり回りくどく、分かりづらいものである。故に私は、これを次回の展開のための"準備"だと考えた。

 

その展開については、たびたび今作から感じられ、この"感覚の乖離"の演出からも滲み出る「悪意」を考えると、「視聴者への攻撃」を行うのではないかと考えている。即ち、作画オタク一般オタクのうち片方を代弁し、劇中キャラがもう片方を糾弾するのだ。

具体的な流れとしては、まずこのPVを評価した片倉(=作画オタク側)がエゴサによって、PVを"作画崩壊"だと笑うオタク(=一般オタク側)を見つけ、彼らに対して激しく憤る。これによって一般オタク側への攻撃が完了する。そしてその様子を見た烏丸(=一般オタク側)が「うわ~アニメ博士怒ってる~」のようなニュアンスで嘲笑、作画オタク側への攻撃を完了する、という辺りが妥当か。

 

要するに、このような全方位煽りを以てこの一連の演出が完成すると、私は考えているわけである。

 

あとがき

一連の話を要約すると、「作ったPVを視聴者に叩かせ、叩いた人間評価した人間ともども煽る」という悪意に満ちたマッチポンプが完成してしまうのだが、こんな性格の悪い予想が的中したらどうなるのだろう。少なくとも、かなり悪意に満ちたアニメだと捉えられることは間違いない。

とりあえず、「ガーリッシュナンバー」制作陣はst.シルバーに謝った方がいいと思う。もう既に謝っているかもしれない。